知的生産ブログ


 
 

ドイツ民主共和国憲法(東ドイツ憲法)が、面白い。言語表現の「慣性」を裏切られるからだ。

例えば、

ドイツ民主共和国憲法 第1条

ドイツ民主共和国は労働者と農民による社会主義国家である。ドイツ民主共和国は労働者階級とそのマルクス・レーニン主義政党の指導の下に置かれる、都市と農村における労働者の政治組織である。...

この書き方と書きすぎ感(ハイコンテキスト性)は、ドイツ語ゆえだろうか、社会主義ゆえだろうか。日本の日本語では、見られない表現だ。

「労働者と農民による」「労働者階級とそのマルクス・レーニン主義政党の指導の下に置かれる」「(国家は、)都市と農村における労働者の政治組織」という表現は、国家を成立させるに至った社会主義の成長のなかで生まれていったのだろう。

言語には、2つの制限がある。そして、言語の制限は、思考の制限につながる。

言語の2つの制限のうち、1つは、言語そのものの限界である。例えば、
  • 言語という方法による限界(話し手・聞き手が、ある言葉に完全に同じ意味を抱いていることはない)
  • 言語媒体による限界(様々な状況が相互に関係し合っている状況を、文章は、分岐・合流を設けることができるにしても線状にしか表現できない。会話は、ある程度それを表現できる。図やハイパーテキストは、それを表現できる)
  • 特定言語における語彙の限界(例えば、Saudade(サウダージ)と全く同じ意味・ニュアンスをもつ日本語単語はない)
がある。

もう一つが、最初に書いた 言語表現の「慣性」である。人が、ある言葉の近くにおく言葉として発想する言葉の候補の数は限られる。人は、自分が読んだことのある表現を模倣して使う傾向にあるからだ。

この制限からの開放されるためには、自分とは異なる生き方・考え方の人が書いた文章を読むことが有効である。そして、なんかよくわからん「なにか」を発見するのである。

そのために、例えば、社会主義的な文章は、有益である。
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