知的生産ブログ


 
 

箇条書きでは文脈を表現できない。そして、文脈は重要である。

箇条書きを、どの文脈に置くのかを明記せよ。
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中島 京子 : プロムナード コレ、どうやって食べるの? 日本経済新聞, 2011/ 8/26, 夕刊, 9面.

(1)

「ゴーヤって、どうやって食べるの?」

...(と、昭和ヒトケタ生まれの伯母に聞かれた著者は、ゴーヤチャンプルーの作り方を細かく説明する)...

 そう説明すると
「肉野菜炒めに入れるわけね」
 何か極意をつかんだような顔をして、伯母は家に入って行った。

(2)

「ねえ、マンゴーって、どうやって食べるの?」
 と母。

...

「だって、箱に『種が平たいので、三枚に下ろしてお召し上がりください』と書いてあるのよ!」

...

 馴染みの薄い食材を普及させるには、出荷側も、扱い方や調理法の説明書きをつけるのだろう。しかし、その親切が、ときに要らぬ心配や苦手意識を起こさせているかもしれないので、ご用心である。



(1)は、言葉が認識を生むことに成功した例、(2)は、言葉が認識を生むことに失敗した例である。

ある事柄に関する言葉は、インターネットを通じて、手に入れられるようになった。

しかし、言葉が生む直観は、認識を促すかもしれないし、妨げるかもしれない。認識は、認識を持たない情報の受け手の想像力によって為される行為である。言葉選びに、情報の発信者は十分に注意しなければならない (補足を参照のこと)。

文章は、以下のように終わる。

 食後に皮を剥いてひと口大に切ったマンゴーを出すと、アラウンド80の両親は目を細めて、甘くジューシーな南国果実に舌鼓を打った。

アラウンド80の両親は、彼らにとって新しい果物であるマンゴーを楽しんだ。この出会いにとって、残念ながら言葉は邪魔にはたらいた。そして、その逆、すなち、出会いおいて言葉がプラスにはたらくこともある。

世界規模で問題を解決していかねばならない時代において、我々は目新しいものと頻繁に出会わなければならない。その出会いを幸福なものにするために、言葉が果たす役割は大きく、言葉の発信者に負うところが大きい。
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